認知症の進行速度から見る「遺言最適タイミング」の見極め方
- 医療鑑定研究会 中嶋浩二

- 1 日前
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■ 認知症と遺言能力の関係性
近年、認知症患者さんの遺言能力について相談を受けることが増えてきました。
認知症の診断を受けると、「もう遺言を残せないのでは?」と不安に思われる方や、ご家族が心配されるケースが多いのです。
結論から言うと、認知症と診断されただけで直ちに遺言能力がなくなるわけではありません。重要なのは、認知症の進行度合いと遺言能力の関係をきちんと理解することです。
遺言能力とは、法律的には「遺言事項を具体的に決定し、その法律効果を弁識するのに必要な判断能力(意思能力)」と定義されています。つまり、遺言の内容を理解し、その結果どうなるかを認識できる能力のことです。
私の臨床経験から言えば、認知症の進行度合いによって遺言能力は大きく変わります。軽度の認知症であれば、多くの場合、遺言能力は保たれています。しかし、中等度から重度になると、遺言能力が著しく低下したり、失われたりする可能性が高くなります。
■ 認知症の進行速度と遺言能力の変化
認知症の進行速度は、病型によって大きく異なります。アルツハイマー型認知症、血管性認知症、レビー小体型認知症など、それぞれ特徴的な進行パターンがあります。
例えば、アルツハイマー型認知症では、一般的にMMSE(Mini-Mental State Examination)という認知機能検査の点数が年間に3.3~3.4点ずつ低下するとされています。
私の診療経験上、認知症と診断された患者さんに定期的にMMSEやHDS-R(改訂長谷川式認知症スケール)を実施すると、進行速度には個人差があります。
遺言能力との関連で言えば、おおまかな基準として、MMSEで21点以上は軽度、11-20点は中等度、0-10点は重度と判定されますが、中等度でも20点に近ければ、遺言能力が認められる可能性は高いといえます。一方、11点に近い場合は、遺言能力が否定される可能性も生じてきます。
(※あくまで目安であって、個々によって事情は異なります。)
(おすすめ記事:MMSEの活用法:落とし穴と正しい解釈)
■ アルツハイマー型認知症の進行と遺言能力
アルツハイマー型認知症は、最も頻度の高い認知症で全体の約67.6%を占めます。この病型では、初期に近時記憶障害(数分から数日前の出来事を思い出せない)が現れ、その後、見当識障害(時間、場所、人物の認識障害)や遂行機能障害(計画を立てて実行する能力の低下)が加わります。
遺言能力との関係では、アルツハイマー型認知症の進行度をFAST(Functional Assessment Staging)という尺度で評価すると分かりやすいでしょう。FASTでは7段階で進行度を評価します。
FAST stage 4では、複雑な作業の障害が見られますが、日常生活はほぼ自立しています。この段階では、遺言能力はあると判断されることが多いです。
FAST stage 5(中等度認知症)になると、適切な服の選択などに介助が必要になります。この段階では、遺言内容の複雑性によって遺言能力の有無が左右される可能性があります。
FAST stage 6(やや高度の認知症)以降は、トイレや入浴、着替えなどの基本的ADL(日常生活動作)にも介助が必要になります。この段階では、遺言能力が否定される可能性が高まります。
(※あくまで目安であって、個々によって事情は異なります。)
■ 血管性認知症の進行と遺言能力
血管性認知症は、全認知症の約19.5%を占める二番目に多い認知症です。脳梗塞や脳出血などの脳血管障害によって起こるため、段階的に悪化するという特徴があります。つまり、ある日突然悪化し、しばらく安定し、また悪化するという階段状の経過をたどります。
(※他の経過をたどるタイプもあります。)
血管性認知症では、障害される脳の部位によって症状が異なります。前頭葉が障害されると遂行機能障害や自発性の低下が目立ち、側頭葉が障害されると記憶障害が顕著になります。
(※緩やかに全般的な認知機能が低下するタイプもあります。)
遺言能力との関係では、血管性認知症の場合、認知機能の変動が大きいため、「良い時間帯」を選んで遺言を作成することが重要です。ただし、中等度以上に進行した場合は、アルツハイマー型認知症と同様に遺言能力が否定される可能性が生じてきます。
■ 遺言能力の判断基準
遺言能力の有無を判断する際には、医学的見地だけでなく、遺言の内容や作成状況など、様々な要素が総合的に考慮されます。裁判例を見ると、以下のような要素が重視されています。
医学的評価
認知症の診断や重症度評価は、遺言能力判断の重要な要素です。ただし、医学的診断があるだけで遺言能力が否定されるわけではありません。例えば、認知症と診断されていても、MMSEやHDS-Rの点数が比較的高く、判断能力が保たれていると医師が判断すれば、遺言能力が認められる可能性があります。
私の経験では、認知症患者さんの診療記録が遺言能力の証拠として重要視されることが多いです。特に、遺言作成前後の診療記録、認知機能検査の結果、日常生活の自立度などが注目されます。
遺言の内容と複雑性
遺言の内容が単純明快であれば、やや高度の認知症でも遺言能力が認められる可能性が高まります。逆に、内容が複雑で高度な理解力を要する場合は、中等度の認知症でも遺言能力が否定されることがあります。
例えば、「すべての財産を長男に相続させる」という単純な内容であれば、やや高度の認知症でも理解できる可能性があります。一方、「不動産はAに、預金はBに、株式はCに相続させる」といった複雑な内容の場合は、より高い認知機能が必要となります。
大阪高裁の判例(平成19年3月16日判決)では、「本件遺言は遺言者が被控訴人と同居する自宅を被控訴人に遺贈するという単純明快な内容であって、高度の理解力が必要になるとは認められない」とされています。
遺言者と受遺者の関係
遺言者と受遺者(遺言で財産を受け取る人)との関係も、遺言能力判断の一要素です。長年の交流がある親族や介護者に財産を残す内容であれば、自然で合理的と判断されやすいです。一方、突然現れた第三者や、これまであまり関わりのなかった人に多額の財産を残すような内容は、不自然と判断される可能性があります。
(おすすめの記事:【弁護士必見】遺言能力の総合判断に必要な5つの要素とは?)

■ 認知症の進行に応じた遺言タイミングの最適化
認知症の進行速度を考慮すると、「遺言の最適タイミング」は非常に重要です。私の臨床経験から、以下のようなタイミングの見極め方をお伝えします。
認知症の診断直後のタイミング
認知症と診断されたら、可能な限り早めに遺言を作成することをお勧めします。特に軽度認知症の段階(MMSEで21点以上、HDS-Rで20点以上)であれば、遺言能力はほとんどの場合で認められます。
ただし、診断されたばかりで動揺している時期は、冷静な判断ができない可能性もあります。診断から1〜2か月程度、心理的に落ち着いた時期を選ぶことも大切です。
認知機能の変動を考慮したタイミング
認知症、特に血管性認知症やレビー小体型認知症では、認知機能に日内変動があります。つまり、調子の良い時間帯と悪い時間帯があるのです。
遺言作成のタイミングとしては、当然ながら認知機能が最も良い時間帯を選ぶべきです。多くの場合、午前中の方が調子が良いことが多いですが、個人差があります。ご家族や介護者と相談して、最も調子の良い時間帯を見極めることが重要です。
また、体調不良や睡眠不足、薬の副作用などで一時的に認知機能が低下することもあります。そのような状態での遺言作成は避けるべきです。
中等度よりも重度の認知症での遺言作成の工夫
中等度よりも重度の認知症(やや高度~高度)の場合、遺言能力の有無は微妙な判断となります。この段階での遺言作成には、以下のような工夫が必要です。
まず、遺言の内容をできるだけ単純にすることです。「全財産を長男に相続させる」といった単純明快な内容であれば、理解しやすいでしょう。
次に、医師の診断書を取得することです。遺言作成時の認知機能状態を医学的に証明できれば、後々の紛争を防ぐことができます。理想的には、遺言能力の有無についての意見を含む診断書が望ましいです。
さらに、遺言作成の過程を録画しておくことも有効です。遺言者が内容を理解し、自分の意思で決定していることを記録として残せます。
最後に、公正証書遺言を選択することです。公証人の面前で口授する形式なので、遺言者の真意を確認する機会があります。ただし、公正証書遺言だからといって必ず有効というわけではなく、高知地裁の判例(平成24年3月29日判決)では、公正証書遺言であっても遺言能力がなければ無効とされています。
■ 専門医による鑑定の活用
最近注目されているのが、「生前」における遺言能力の鑑定です。これは、遺言作成時に医師(認知症専門医)が遺言能力の有無を鑑定するものです。
生前の鑑定では、認知機能検査だけでなく、意思疎通能力、注意機能、遂行機能など総合的に評価します。生前における専門医の鑑定書があれば、後に遺言能力が争われた場合でも、強力な証拠となります。
■ まとめ
認知症と遺言能力の関係について、専門医としての経験から以下のようにまとめます。
まず、認知症と診断されたからといって、すぐに遺言能力がなくなるわけではありません。軽度認知症の段階であれば、通常は遺言能力があると判断されます。
認知症の進行速度は個人差が大きいですが、アルツハイマー型認知症では年間にMMSEで3.3〜3.4点ずつ低下するとされています。つまり、診断時に軽度だった方でも、数年後には中等度になる可能性があるのです。
遺言能力の判断には、医学的評価だけでなく、遺言の内容や複雑性、遺言者と受遺者の関係なども考慮されます。特に、遺言の内容が単純明快であれば、やや高度の認知症でも遺言能力が認められる可能性があります。
遺言能力を客観的に証明するためには、医師の診断書や認知機能検査の結果が重要です。可能であれば、遺言作成時に専門医による「遺言能力の有無」についての鑑定書を取得しておくと良いでしょう。
最後に、認知症患者の遺言に関わる問題は、医学的側面と法律的側面の両方があります。できるだけ早い段階で、医師と法律の専門家(弁護士・司法書士など)に相談しながら、最適な方法を選択することをお勧めします。
認知症の進行は止められなくても、適切なタイミングで適切な対策を取ることで、本人の意思を尊重した財産承継は可能です。大切なのは、認知症の診断を受けたらすぐに行動することです。早めの対策が、後々の家族の争いを防ぎ、本人の望む形での財産承継を実現する鍵となります。
執筆責任者:医療鑑定研究会 代表医師 中嶋 浩二

【略歴】
2002年 大分医科大学(現 大分大学)医学部医学科卒業
2002年 大分医科大学(現 大分大学)医学部附属病院
2003年 Baskent University Ankara Hospital
2006年 昭和大学(現 昭和医科大学)藤が丘病院
2015年 東京警察病院
2018年 牧野リハビリテーション病院(現職)
【資格】
日本専門医機構脳神経外科専門医
日本認知症学会専門医
日本認知症学会指導医
日本職業・災害医学会認定労災補償指導医
日本脳卒中学会専門医
厚生労働省認知症サポート医養成研修終了 等




