遺言能力の立証に活かすHDS-Rの質的分析 ― 協力医との連携と主張戦略を専門医が指南
- 医療鑑定研究会 中嶋浩二

- 9月4日
- 読了時間: 5分

遺言者の遺言能力の有無が争点となる遺言無効確認訴訟において、診療録(カルテ)に記載されたHDS-R(長谷川式認知症スケール)の点数は、しばしば重要な客観的証拠として法廷に提出されます。
しかし、その点数を機械的に解釈し、主張・立証の根拠とすることには大きなリスクが伴います。
本稿では、認知症専門医の立場から、HDS-Rの医学的な本質と限界を明らかにし、弁護士の先生方が訴訟においてその証拠価値を的確に評価し、戦略的に活用するための要点について詳説いたします。
■ HDS-Rの医学的特性と限界 ― 訴訟における証拠価値の前提として
HDS-Rの結果を訴訟で用いるにあたり、まずその医学的な位置づけと固有の限界を正確に理解しておくことが不可欠です。
この理解は、相手方から提出されたHDS-Rの結果を弾劾する際の強力な論拠となり得ます。
◆HDS-Rは「診断ツール」ではなく「スクリーニング検査」である
大前提として、HDS-Rは認知症の確定診断を行うための検査ではありません。
あくまで認知機能低下の疑いがある対象者を効率的に拾い上げるための「スクリーニング(ふるい分け)検査」です。
したがって、「HDS-Rの点数が低い=認知症である=意思能力がない」という短絡的な三段論法は医学的に成立しない場合もあります。
診断は、画像検査、血液検査、詳細な神経心理検査、そして臨床経過の観察などを総合して初めてなされるものです。
◆HDS-Rの結果に影響を与える多様な交絡因子
HDS-Rの簡便さは利点である一方、結果が様々な要因(交絡因子)に影響されやすいという脆弱性を内包しています。
訴訟においては、これらの因子を指摘し、結果の信頼性に疑問を呈することが有効な反論となり得ます。
・被検者の状態
検査当日の体調不良、疲労、不安や抑うつといった精神状態、せん妄(一時的な意識の混濁)は点数を著しく低下させます。また、難聴や視力低下が質問の聴き取りや物品の認知を妨げ、実態より低い点数につながることも稀ではありません。
・学歴・職歴
高学歴者や知的職業に従事していた方は、認知機能が低下していても検査を「解く」能力が保たれているため、点数が高く出る傾向(偽陰性)があります。いわゆる「高学歴の壁」と呼ばれる現象です。
・施行者の技量
HDS-Rは標準化された手順がありますが、実際には施行者の質問の仕方、声のトーン、ヒントの出し方、採点の厳格さによって結果は変動し得ます。診療録に施行者が誰であるかの記載がない場合、その信頼性を問う余地があります。
これらの限界を理解せず、点数のみを鵜呑みにすることは、極めて危険であると言わざるを得ません。
(併せてに読みたい記事:【弁護士必見】遺言能力の総合判断に必要な5つの要素とは?)
■HDS-Rの点数評価と質的分析 ― 遺言能力の有無を推認する視点
HDS-Rの証拠価値を評価する際、合計点にのみ注目するのではなく、どの項目でどのように失点したかを分析する「質的分析」が極めて重要です。
失点のパターンは、認知機能障害の核となる病態を浮き彫りにします。
◆カットオフ値(20/21点)の呪縛からの解放
一般的に、HDS-Rでは30点満点中20点以下が「認知症の疑い」とされます。
しかし、このカットオフ値は絶対的な基準ではありません。
21点以上であっても初期の認知症である症例は多数存在しますし、逆に20点以下でも、前述の交絡因子による一時的な低下である可能性も考慮すべきです。
裁判例においても、点数のみで遺言能力の有無を判断するのではなく、他の証拠と総合的に評価する傾向が顕著です。
合計点はあくまで一つの指標に過ぎない、という視点を堅持することが肝要です。
◆遺言能力と関連性の高い失点項目
遺言能力、すなわち遺言内容を理解し、その法律効果を弁識する能力と関連が深いのは、特に以下の項目です。
・問7. 遅延再生(3つの言葉の想起)
これはアルツハイマー型認知症で最も早期から障害される「エピソード記憶」の指標です。
ここで0点、かつヒントを与えても全く思い出せない場合、新しい情報を記憶として留めておく記銘力が著しく低下していることを強く示唆します。これは、弁護士からの説明や遺言内容を理解・保持する能力に直結する重要な所見です。
・問2. 時間の見当識(年月日、曜日)
日付のズレが1~2日程度であれば問題は少ないですが、年や月を大きく間違えるような重度の時間見当識障害は、自身の置かれた状況を正しく認識する能力が著しく損なわれていることを示唆します。遺言という、自身の死後の財産を処分する時間軸を持った行為の理解が困難であった可能性を推認させます。
・問5. 計算(100-7の逐次減算)
単純な計算能力だけでなく、注意を持続させ、課題を遂行する「実行機能」も反映します。ここで容易に混乱し、課題を遂行できない場合、複雑な利害関係を含む遺言内容を論理的に構成・判断する能力が低下していた可能性が考えられます。
これらの項目の失点は、単なる「物忘れ」とは質的に異なる、脳の器質的障害の存在を色濃く反映しているのです。

■遺言無効確認訴訟におけるHDS-Rの戦略的活用 ― 協力医との連携と主張立証の要点
弁護士の先生方が協力医に意見書を依頼される際には、以下の点を明確に含めるよう要請することが、説得力のある主張の構築に繋がります。
当該HDS-Rの結果(合計点と質的分析)の医学的解釈
結果から推認される認知機能障害の重症度、およびアルツハイマー病等の原因疾患の可能性
当該検査結果の信頼性に関する評価(交絡因子の影響の有無)
他の診療録情報、画像検査、看護記録等とHDS-Rの結果を統合した、遺言作成時点における意思能力(遺言能力)に関する包括的な医学的意見
(併せて読みたい記事:【遺言能力】鑑定を依頼する際に収集すべき資料とは?チェックリストを大公開!)
HDS-Rは、遺言無効確認訴訟において、遺言者の遺言能力を推し量るための一つの有用なツールです。
しかし、それは万能の指標ではなく、その解釈には深い医学的洞察が求められます。
弁護士の先生方におかれましては、本稿で述べたHDS-Rの特性と限界をご理解いただき、認知症専門医と緊密に連携の上、個々の事案に応じた精緻な主張・立証活動を展開されることを期待しております。
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